ヴィーンニツャ〜キーウ

朝、薄暗いうちにチェックアウトし出発。路面電車に乗ったが鉄道駅へ直行しない系統だったらしく、微妙に離れた場所で降りざるを得なかった。人っ子ひとりいない道を駅へ向かう。

駅のホールでは、早朝からそれなりの人数が列車を待っていた。

私が乗る列車は電車特急の予定だったが、入線時刻にやってきたのは客車だった。一瞬喜んだがこれは遅延していた前の列車らしい。残念。


遅れてやってきたICという韓国製の電車特急に乗車。心なしか車内がKORAILに似ている気がする。

ウクライナの原野に昇る朝日を眺めながら、Origa「ポーリュシカ・ポーレ」を(ロシアの国土拡大を図る要素もある曲なのでこっそりと)聴く。個人的には、この風景にまたとなく合う曲だと思った。
(Origa「ポーリュシカ・ポーレ」)
2時間ほどでキーウ近郊へ。

車庫に客車がたくさん留置されているのが見えると、ほどなくしてキーウ駅に到着。


首都の駅にふさわしい壮大なホールを有する風格のある駅であった。ここにもクリスマスツリーがあった。

ホテルのチェックインが夕方からなので、それまでの間キーウ駅地下の荷物預かり所に預けた。預かり証がなかなかレトロなデザインでよかった。
ホテルから何回も宿泊確認のメールが来ているのを見落としていて、「連絡がなければキャンセルします」と最後通牒まで来ていたが急いで連絡したらなんとか間に合った。
戦争の爪痕をめぐる


旧ソ連名物のめっちゃ深い地下鉄に乗り、中心部へ向かう。


キーウ中心部の様子。正直言ってここに来るまでは侮っていたと言わざるを得ない。小国ではなく帝国クラスの首都の風格がある荘厳な街並み。さすがはキエフ大公国の都にして、ソ連でも指折りの大都市だっただけのことはあると思った。


フォロワーさんに教えてもらったお店「Пузата Хата」(満腹の家)で昼食。スタローバヤ形式で各カウンターで料理を注文したりピックアップしたりし、レジでお会計してから席で食べる。

ボルシチ・ラザニア・チュロス・ラズベリーパイ・ベリージュースを取ってたったの680円‼︎(これでも値上げしたらしい)味も全部美味しく、何度でも通いたくなった。実際にキーウ・リヴィウにいる間外食はほぼПузата Хатаだった。

独立広場(マイダン・ネザーレジュノスチ)の独立記念碑。頂に立つのはセイヨウカンボクの枝を掲げる女神べレヒニア像。


広場にはおびただしい数の国旗が立てられていた。これは全部戦死者を表している。あまりの数の多さに言葉を失った。日の丸もあった。
手を合わせていると「ドネーション、ドネーション」と声かけされたが本物の援助団体の方なのかわからなかったので寄付はしなかった。寄付するなら駐日大使館の口座などに振り込んだ方が確実であろう。

ウクライナ戦争歴史博物館へ向かう途中にあった、団地の壁に描かれたモザイク画。女性の民族衣装をとても細かく描き込んでいて秀逸である。

遠くからでも見えている「ウクライナの母」像。この下に博物館がある。



「永遠の栄光公園」に入ると、ロシア軍の鹵獲車輌が展示されていた。改めて戦争の生々しさを実感する。

巨大なウクライナ国旗と、ウクライナの母像。

「モスクワへ」という標識を模したものが掲げられた戦車。ロシアへの反攻を表しているのだろうか。

真下から見たウクライナの母像。盾には以前ソ連の国章が付いていたが、現在はウクライナの国章に交換されている。この下にあるウクライナ戦争歴史博物館に入る。

3国国境から持ってこられたと思われる、弾痕がたくさんついた標識。ウクライナが勝つか、ロシアが勝つかの運命の分岐を表しているようにも見える。

館内には独ソ戦の展示がたくさんあった。写真をパシャパシャと撮って良いものかわからなかったので(過去の戦争でたくさんの人が亡くなっている)、いまさらの話かもしれないがあまり写真は撮らなかった。

ウクライナの最大版図を示した地図。北カフカスの領有権をオスマン帝国と争っていたロシア帝国の皇帝エカテリーナ2世は、ウクライナ南部の黒海コサック軍にこれらの地を領地として与え、要塞を築かせた(Wikipediaより)。

今回のウクライナ戦争の展示も徐々に増えていて、ドローンが吊り下げられていた。

2階の天井にあったソ連時代のマーク。

キーウ中心部のアパートメントホテル「CentrRoomKiev」にチェックイン。部屋は狭めだが綺麗だった。だが、ビル一階の入り口の分厚い鉄扉で指を挟み、爪が剥がれてしまった。これ以降左手の薬指にテーピングを巻いて旅を継続することになる。


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